作成: 1999/02/20 天野 悦夫
データ番号 :020128
カイコ幼虫の斑紋による雌雄性の判別
目的 :家蚕の雌雄判別による優良交配品種の育成
放射線の種別 :エックス線
放射線源 :X-線(80kV, 3mA, Al filter 1mm, 15cm, 25分 など)
線量(率) :2,188R/minにて、867R〜2,168R (約21Gy/min にて 約8.6Gy〜約21Gy相当)
利用施設名 :九州(帝国)大学農学部
照射条件 :室温、大気中
応用分野 :動物・昆虫育種、作物育種、害虫駆除(不妊虫放飼法)、生物学研究
概要 :
家蚕飼育では雑種強勢(ヘテロシス)を利用したF1交配系統が利用されるが、その両親の選定を効率よく進めるため、あるいは飼育においても、より効率の良い性を選抜するためには、幼虫初期に選抜できることが望まれる。蚕ではWZ型の性決定が行われるため、雌性決定染色体であるW染色体に遺伝形質標識を持つことが望まれる。本研究ではX線誘発変異による幼虫のセーブル型斑紋突然変異による雌雄判別法が実用化できることを示している。
詳細説明 :
カイコ(家蚕)から採れる絹糸(生糸)は、国外でも評判になったテレビ番組の「おしん」に象徴されるように、近代日本の基礎が築かれた時代に我が国の輸出の花形であった。その後、現代産業の発達には追随しきれず、合成繊維その他の繊維に押されてしまったが、まだまだ高級品としての需要はあり、アジア各国では引き続き生産されている。日本における蚕の研究は、遺伝学研究の材料として取り上げられたこともあり、そして又、より優れた品種・系統を育成する育種事業としても進められ、有用昆虫の育種という世界でも稀な分野を築いてきた。今日でも、桑の生葉に代わる合成飼料の開発、絹糸腺の強力な蛋白合成機能のバイテク利用など、近代・現代の研究成果を応用する新しい分野に貢献している。昆虫の遺伝学研究ではショウジョウバエ類が、細胞遺伝学、集団遺伝学、生態遺伝学から宇宙での生物学研究にまで用いられて有名であるが、家畜的な有用昆虫としては蚕ほどに育種事業が進められた昆虫は無い。わずかにミツバチで研究が進められている程度である。このような特異的な昆虫の育種事業における放射線の利用が、昭和初期から活発に行われていたということもそれ自体特筆に値する。しかし、文献としては古い物が中心になることは残念である。
蚕の飼育では、より収量の多い系統を求めて、雑種強勢(ヘテロシス)を利用したF1雑種の利用が行われるが、その交配用の親を選ぶ場合にはまず両親系統でそれぞれの雄雌を、しかもできるだけ若い幼虫の段階で区別できることが望まれる。キイロショウジョウバエではXとYの二種の性染色体の組み合わせによって雄(XY)か雌(XX)かが決まることが知られており、その染色体上にある遺伝子の表現によって雌雄の判別ができることが知られている。蚕では雌の方が性染色体についてはヘテロのWZ型であり、雄がZZ型である。それまでは蚕幼虫の生殖腺による鑑別法が用いられていたが、田島はX線照射した蚕から図1に示すようなセーブル斑変異体を選抜し(原論文1)、図2に示すような、後にその性染色体(W)への転座系統を見出した(原論文2)。
図1 雌雄判別に利用できる蚕の斑紋。 a:セーブル斑紋 雌、b:姫斑紋(原論文2より引用)
図2 セーブル斑紋による雌雄判別の方法。(原論文2より引用)
蚕の幼虫では斑紋がほとんどない姫蚕と、斑紋の濃い形蚕があるが、セーブル斑はこれらの中間的でやや汚れた感じの斑紋を示し区別は容易である(表1)。このセーブル斑が雌にのみ現れる系統は、セーブル斑遺伝子が雌性を表現するW染色体上に転座した系統と考えられ、これによる雌雄性の判別に向け研究が進められた。しかし、この転座系統には雌の生理作用を著しく阻害すると思われる欠陥があることから、その望ましくない遺伝要素を取り除く努力がなされ(各原論文)、再度X線を照射して「付着染色体の部分的切除に成功」しているがまだ完全ではなかった。その後、このような改良のためのX線照射実験を重ねた結果、「正常系統を殆ど大差ない程度」まで、雌の生理作用を改善することができた(原論文4)。この転座は第II染色体から、雌性を決定するW染色体への転座であるが、卵細胞が形成される卵母細胞での減数分裂に当たっては、自由に行動できる第II染色体同士が対合をして、分裂は正常に行われるとのことである。
蚕の雌雄判別についてはその後、自然転座を含めて、ゼブラ転座、w2転座、Y転座などの他、卵色に関する物も報告されている。蚕は紙の上に産み付けられた卵が配布利用されるが、卵色の場合はその蚕卵紙の上で、卵の色に応じた機械的選抜法の開発までも試みられている。
表1 雌雄鑑別作業上の生殖線法と転座W法の比較。(原論文2より引用)
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鑑別方法 鑑別者 供試頭数 所要時間 速さ 誤入頭数 誤入率
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生殖線法 張戊基 302頭 19分30秒 0.2581頭/秒 42頭 13.91%
奥野房枝 302頭 19分40秒 0.2559 23頭 7.62%
平均 302頭 1175 秒 0.2570 33頭 10.93%
転座W法 張戊基 392頭 6分50秒 0.9561 2頭 0.51
奥野房枝 392頭 6分40秒 0.9800 0頭 0.00
平均 392頭 405 秒 0.9679 1頭 0.26
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コメント :
有用昆虫の育種という非常に特殊な分野が日本で進められていたこと自体、驚くべき事であるが、更に昭和初期から放射線による突然変異誘発とその利用がおこなわれていたことは特筆に値する。昆虫での基礎生物学的研究は、ショウジョウバエ類や穀物害虫など、実験室内で飼養しやすい昆虫で進められているが、産業としての農業分野では、有用昆虫の育種は世界でも蚕以外には殆ど見られない。日本では産業としての養蚕は衰退したが、バイテク分野での材料としては蛋白の多量増殖などまだ期待できる分野であろう。
原論文1 Data source 1:
X線に因って生じた家蚕の新形質 セーブル斑紋蚕
田島 弥太郎
九州帝国大学農学部養蚕学研究室
遺伝学雑誌(1938) 14(3):117-128
原論文2 Data source 2:
蚕児の斑紋利用による簡易なる雌雄鑑別法
田島 弥太郎
農林省蚕糸試験場熊本支場
日本蚕糸学雑誌 (1941) 12(3):184-188
原論文3 Data source 3:
斑紋利用による蚕児雌雄鑑別法の細胞遺伝学的改良(第一報)
田島 弥太郎
農林省蚕糸試験場熊本支場
日本蚕糸学雑誌 (1942) 13(3):81-94
原論文4 Data source 4:
斑紋利用による蚕児雌雄鑑別法の細胞遺伝学的改良(第二報)
田島 弥太郎
農林省蚕糸試験場熊本支場
日本蚕糸学雑誌 (1943) 14(1-2):76-89
原論文5 Data source 5:
斑紋利用による蚕児雌雄鑑別法の細胞遺伝学的改良(第三報)
田島 弥太郎
農林省蚕糸試験場熊本支場
日本蚕糸学雑誌 (1943) 14(1-2):90-97
原論文6 Data source 6:
斑紋利用による蚕児雌雄鑑別法の細胞遺伝学的改良 実験補遺
田島 弥太郎
農林省蚕糸試験場熊本支場
日本蚕糸学雑誌 (1943) 14(1-2):69-75
参考資料1 Reference 1:
X線による蚕の突然変異の研究
田島 弥太郎
蚕糸科学研究所
蚕糸科学研究所彙報 (1948) 2(1):26-29
キーワード:カイコ、有用昆虫、X-線、育種、幼虫斑紋、雌雄判別、転座、性染色体、標識遺伝子
silk worm, useful insect, X-rays, breeding, lavrva color pattern, gender selection, translocation, sex chromosome, markergene
分類コード:020103, 020502, 020304